月の葉っぱ

夜明けはもうすぐそこに。

目が覚めたら

夢から目が覚めても、

まだ夢を見ていたくて何度も目を閉じる

 

また一度目を閉じると、

もう一度さっき見ていた風景が広がる

 

頭は起きている

でも体はまだ目の向こうの場所にいる

 

もう一度この夢の風景を楽しめるかな

もう一度この夢の中で動けるかな

 

 

夢の中にいたあらゆるものも

みんな起きてきて、少しずつ、

さっきの風景は静止画になっていく

 

もうそろそろ目を覚ます時間

さっきの風景に会うことはもうないかも

 

さっきの風景にいたあらゆるものぜんぶ、

それぞれの空間に戻っていく

 

また会えるかな

たこの風景で会えるかな

 

そうやって、 少しずつ、

さっきの風景の記憶は消えてく

何もなかったことになる

 

もう目の向こうの風景は見えない

 一夜だけの記憶の風景

 

今日の秋は

ちょっと夜の外へ出てみる

 

今日はとてもあたたかかった

カーディガンやパーカーで

少し寒くなった季節を楽しんでいた最近も

今日は半袖で外にでられる

 

ひさびさに感じる風の流れ

秋風を両方の手で楽しめたのは久しぶり

秋の香りも、袖を持たない手で感じる

 

秋は少し寒いけれど

ちょっとした時に、袖をまくったり

 

秋風を感じると夏の自分を思い出したり

これからの秋を過ごす自分を思ったり

 

自然が身近にないなかでも

ほんの少し自然の中にいることができる

 

秋風を楽しめるのは今だけ

めいいっぱい、秋を過ごそう

 

 

秋の香りも秋の食べ物も

たくさん味わって。

 

 

ひとり美術館

昨日、美術館へ行ってきた。

以前自分が立てた「一人で美術館に行く」という目標を達成するために、雨と強風の中、兵庫県立美術館へ。

 

ここへは何度か来ているので、ここまで一人で来ることは順調、あとはチケットを買って、一人で館内を回れるかどうか(さみしさを感じずに)。

 

昨日は財布に2000円しかなく、行くか行かないか本当に迷ったけれど、以前の自分との約束ということでなんとか達成した。今思い出すと、何かとギリギリな一日だった。(2000円の内訳はまた後程。)ひとりカフェという目標も達成したかったのだけれど、無事に行って帰って終わりの金額だったので断念。

 

チケット売り場を少しさ迷いながら見つけ「大学生一枚お願いします」とさらっと言えた、と思ったら「エルミタージュ?」と聞かれた。このチケット売り場はその展覧会だけの売り場じゃなかったんだと少し戸惑い、なんとかうなずいてチケットを購入。チケットも手に入れて、あとは館内をまわるのみ。ひとり時間という目標を少しずつ達成していると感じながら展覧会の場所へと向かう。この時、横に誰かいたらなにを話すか、どうするかってことを考えなくてはいけないな、とすでにひとり時間を気ままに過ごせる良さを知った。 

 

エルミタージュ美術館展はこちらという案内に沿っておそるおそる階段を上っていく。レッドカーペットのような敷物が敷かれた階段を上がった。雨に濡れたこの靴で上っていいのかと不安になりながら、カーペットが敷かれていないはしっこを歩いて上がった。

 

チケットの半券をちぎってもらい、そちらからどうぞと言われ進むといきなり館内へ。突然入っていった!という感じだった。今日は音声ガイド分がギリギリ払えない。いつもは音声ガイドと共に館内を回るけれど、たまにはガイドのない静かな空間を回ってもいいかなと切り替えた。ここからはひとりでも何も問題ない!とひとり美術館のはじまりはじまり。

 

入ってすぐにドーン!ととても大きな肖像画があった。すぐにそこへ行きたかったけれど、まずは主催者のメッセージ(?)を読もうとそこへ行った。あれ、そういえば作品の一覧の紙はどこ?としばらくキョロキョロして、近くにあったことに気づいた。一人の戸惑いと周りに誰もいない焦りで盲点になっていた。手に持つと安心して、さあ、これを握って館内を回ろう!と気分が上がった。もしさみしくなっても紙で顔を隠せば安心。主に見た資料は、作品リストではなく、こども用の鑑賞ガイドだった。(とてもわかりやすかった。)案の定、ちょっとした戸惑いと焦りで、主催者のメッセージは全く頭に入らず、先程の肖像画へ向かった。すると、カシャッとカメラの音。「え、なに、なんでカメラ?」そう思いながら作品の説明の近くに、11月はじめ(具体的な日にちは覚えていない)まで「撮影OK」との表示があることに気づいた。絵をじっくりみる以上に、写真を撮るか否か頭の中でぐるぐるもやもや考えて、撮ることにした。近くにいる学芸員の方がじっと見ていたのでガクガクしながら撮った。もちろん、ブレブレで画質も悪かった。でもまぁ、いっか。こだわりを持って撮り直しするほど心の余裕がなかった。

 

確認とかされるのかな、とびくびくしながら無事学芸員さんの前を通過。

いつもどこをどう回ったらいいのかと戸惑っていたけれど、今回は床に矢印があったため安心してそれに従って前へ進めた。お気に入りの作品、見つかるだろうかと少し不安になりながら、ひとり美術館という目標を達成しようと望んでいた。

 

なんとなく心に残った作品を覚えておきたいと、作品リストにマルをつけようと思った。でも今日は鉛筆は持っていなかった。(あとで貸し出しの鉛筆があったことを知る。)なので、はたから見るとおかしな人だけど、作品リストの数字部分に、爪でグッと押し付けて印をつけた。(ポイントは力強く、でないと消えてしまう)今、見てもその折り目を見るとその時の自分を思い出せる(気がする)。

 

私は西洋美術の知識が本当にない。だから、この絵を理解する、ということはせずにこの絵の中に入るとどんな感じかな?とか、この人たちは何を話しているのだろうと想像してみたり、こちらを見ている人の景色はどんなものかと想像していた。描かれた年が1500年代や1600年代だから、その年にその風景を味わえることって美術でしかないのではないかなと思いながら楽しんでいた。もちろん描かれた年がその年であっても、描かれている風景はもっと前の風景だったりする。その分、当時の空気を、また画家が通して伝える空気を、そして、今の空気を通して考えられることはとても楽しいことではないかな。「楽しい」とまとめてしまうとどこか浅い感じがしてしまう。でも今は、その「楽しい」を他に表現できない。だから今は「楽しかった」と感じている。 

そんな、爪で印をつけたり、想像したり、とっても自己流なひとり美術館を楽しんだ。

 

 ひとりで美術館へ来ることは私にとってとてもハードルが高いことだと思っていた。でもいざ行ってみると思った以上にハードルは低かった。絵を見ていると、近くにいる人ほとんどが優しい目をしていたし、受付の人も優しかった。私に気づいて絵の近くからよけてくれる人もたくさんいた。私が遠くから見ていたら、それを迂回して邪魔しないようにしてくれた。たくさんの気遣いに包まれて、だんだんひとりが慣れてきて、むしろ楽しくなってきた。誰かと見なくてはいけない、そんなこと一切なかったんだと思った。優しさに包まれた今日の時間は今までになく一人でいる時間を癒してくれた。

 

 おどおどする必要も、無理する必要もなかった。一人でいるからこそ人の動きに敏感になれて、一人でいるからこそ、小さな優しさを心から感じた。一人で見ていると周りの人々は程よい距離感を保ってくれていた。勇気を持つと味方が増える気がした。そんなにもたいそうなことではないけれど。

今日もらった小さな優しさを忘れないでおこう。大切に。

 

展覧会を出るとたくさんの商品があった。もし今日、2000円でなくて20000円持っていたら、これもあれも買えたのにと思いながら、一通り見てポストカードの売り場へ。喉が渇いていたので、帰りに飲み物を買うとしたら予算的に1枚で終わり。でも、どうしても1枚にしぼれず2枚買った。のども渇いていたけれどポストカード優先にした。一応人と話さなくていいということで喉カラカラで帰宅。ちょっと危険。

 

そして帰りにアンケートがあった。特別招待券が抽選で20名に、との文字があったので書いてきた。いつもなら通り過ぎるけれど、一人なので時間もあるしゆっくり書ける。誰と来たかの質問に「ひとりで来れた!」と思いながら一人にマルをした。感想には「楽しかった」と大学生らしからぬ小学生のようなコメントを書いて投函。

 

 あたるといいな。

 

展覧会から外へ出て降りてくると、王冠をかぶって撮影できるスポットがあった。もちろんひとりなのでその風景だけ写真に撮って満足した。これはたとえ誰かと来ていても、恥ずかしくて撮れない写真だった。撮ろうか迷っていそうな人がいたので「撮りましょうか」と声をかけようとしたけれど「私も撮りますよ」と言われたら「いやいいです」となったりして大変だ、と頭の中でたくさん会話して無言でその場を去った。

 

 

ひとり力をつけたい、と望んだ目標だったけれど、思いの外得るものは大きかった。一人でいる自由と、想像する広がりと楽しさ、そして、自分なりの美術館の楽しみ方を知れたのかもしれない。帰り道は満足感がいっぱいで、いつも耳につけていた音楽は必要なかった。スマホも見なくていいと思えた。そして、なんとなくちょっと目が大きくなった気がした。絵の中に入ろうとしたり、この裏側はどんなだろうと想像したり、じっと見ることが多かったからかな。それとも「楽しかった」と目がいっているのだろうか。目に栄養をありがとうって感じかな?気持ちも頭も栄養補給しましたとさ。

 

他にも気づいたことは少し悲しいこと。覚える力も想像する力も減っている、ということだった。 金曜夜のドラマ「この声をきみに」でも「少ない情報から想像できなくなっている」といっていた。そう、多くの情報を受け取った状態のパンパンの頭で何かを想像することは難しかった。以前よりも想像することが難しいと感じた。でも、学んだり知ったからこそおもしろいと思えるものもあった。でもね、とにかく、想像してみることがとても楽しかった。一人のさみしさなんてその時は感じないし、抱えていた不安も感じなかった。うまく想像できないことも何度かあったけれど、想像してみること、それはスマホを見ることよりも何百倍も何千倍も楽しかった。そのことが分かっただけでも、今日は大事な日になった。

 

 

 みなさんもぜひ素敵な美術館の一日を。

 読んで頂きありがとうございました。

 

ちなみに、2000円の内訳。

大学生観覧料1200円、交通費440円、ポストカード二枚324円。

無事帰宅。

 

ひとこと要約

 ふと10日前の記事を一言要約してみようと思う。

atamatokokoro.hatenablog.com

 

「新しい手帳から春の気配、その箱に何をつめていく?」

 

 

 20日前の文も振り返ってみようかな。

atamatokokoro.hatenablog.com

 

「ひとりでいることは、苦しくて楽しい」

 

 

ではもうひとつ、30日前の文も。

 

atamatokokoro.hatenablog.com

 

「手書きで写した本は、’自分’に気づくたからもの」

 

 

<そして最後に思ったこと>

1分で考えたことを多くの字数であらわすよりも

何日も何日も考えてきて、それを一言で表せるようになりたい。

本当に伝えたいことは一文で表せるのかもしれないとも。

 

 

一言であらわせる練習を積んでいこうと思います。

たくさん話して全く伝わらない、そんなことにならないように

一言で相手に伝わる、そんな人になりたいです。

 

 

読んで頂きありがとうございました!

 

 

大好き!

 大好き!と言いたい。

 

 この言葉はきっと、誰もが、

いつまでも無邪気に言っていい言葉

 

それでもあまり周りの人からは聞かない

自分もめったに使わない

 

大好き!と無邪気に言ったのはいつだろう

大好き!と無邪気に言えたのはいつだろう

大好き!と無邪気に言えるのはいつまでだろう

 

いつまでも小さな子のように、

いいなと思えるもの、いいなと思える人を

無邪気に、大好き!と言いたい。

 

惜しむように言わずに、

この言葉はもっとたくさん使ってもいいはず

 

いつか言いたい、大好き!と

でも、今も言いたい、大好き!と

 

もったいぶらずに、照れずに、

いつも言えるようになろう

 

伝えてみよう、伝えたいときに。

 

今が伝えるその時かもしれないから。

 

大好きと思ったその時が

大好きと伝えるそのとき。

 

 

まずは、

自分の持ち物に大好きと伝えてみる。

そうしたら、

大好きなものがそばにあることで

毎日が明るくなる。

 

人に対しても大好きと伝えられたら、

 きっと明るい毎日が広がる。

 

 

 

好き!ではなく

大好き!と。

 

そして、ありがとう、

その言葉も添えて。

 

 

大好き!と思える相手がいること

伝えられることができること

そう、思わせるような存在でいてくれたこ

そのことにありがとうと思う

 

そして、大好き!と。

 

 

 いつか言えなかったと後悔しないように。

 

 

さあ!大好きなものがある嬉しさと

大好きな人がいる嬉しさに感謝して、伝えよう。

 

大好き!と。

 

 

今日も明日もこれからも、

大好き!に会いに行こう

 

 

 

 

ひとつ扉を開けるとそこは…

ひとつ扉を開けるとそこは

今まで見たことのない広がりがあった

同じ年の子がたくさんいて、

ここではじめて家族とは違う人とつながる楽しさを知った

そこに遊びは、あふれるほどあった

 

またひとつ扉を開けるとそこは

これからを生きる根幹を学ぶ場所があった

すべての行動が、ある一人の大人に正され

指示される

同じ年の子とまとまって動くこと、

まとまって動けることが必須となった

 

あることができる、できないで

同じ年の子の中で順位が振り分けられるようになったのはこの頃から

 

もうひとつ、扉をあけるとそこは

同じ服を着て、同じ部活に入って

同じ受験をする世界があった

 

ここで過ごす生活が、成績となって

これからを左右するようになったのは

この頃から

 

一年の圧迫した受験を越えて

ようやく次の扉をひらいた

 

そこには、さらに

今までにないくらいの勉強量を行うことが

当たり前になった空気があった

 

誉められることもなくなり、

認められることも減った

 

今まで同じ行動を強いられてきたかと思えば、

自主性を求められるようになり

すべて自己責任のようになった

 

体が弱いことも自己管理ができていないからと

勉強がうまくいかないのは意思が弱いからと

 

自己否定が続く日が増えた

 

 そしてまた再び不穏な一年を越え、

次の扉を開いた

 

 

 ようやくひらかれた世界にこれた

ようやく明るく前を向けると心がおどる

 

それでも、

周りの人は常に次の扉について話し合う

今、扉を開けたばかりなのに 

もう次の扉について考えるの?

 

今開けたばかりの空間を楽しむことは

次の扉について考えてからなの?

 

 

そして 

最後にあらわれたのは

多くの扉

今までは前にひとつしかなかった扉

それを開けていけば前に進めた

 

でも今は、どの扉を開けるかは自分で決める

 

選べる自由をようやく得た

それなのに、

どこかみんな、同じ扉を開けようとひとつに集中する

 

ひとりひとつ、自分のためにある扉を

どうしても見つけたい

 

 どうしても開けたい

 

 そのために、もうすぐしたら

この扉を閉じる時が来る

 

この扉をいつまでも開けていたいけれど

必ず閉じる時が来る

 

そのために、今この扉が開かれている間中

笑って過ごそう

 

  

この扉を閉じたら、また別の扉が開くと信じて

 

 

 

 

購読中のもやもや

文の向こうに人が見えるブログがある。

文の向こうに人が見えないブログがある。

 

 

ブログはどれも人が書いている。

だから、どのブログも読むたびに見える人がいる。

でも、人が見えないブログもある。

 

 

ブログ体というのかな。

どの人も自分なりの言葉や話し方があるはずなのに、

何かを伝えるためにブログ体を通して、一つの記事を作り上げていく。

ブログ体を意識するために、

自分の思ったままの言葉ではない言葉で作り上げるイメージがある。

 

もちろん、読み手を意識して読みやすく面白い文をつくりあげることで、

どんな読者にも伝わる文が書ける。それによってきっと人気もでる。

でも、

読み手を意識しすぎるために、その人だけの感じ方が消えて

おもしろく、楽しく、を作り上げようとしすぎて、本人が疲れていたら。

 

多くの人に読んでもらう、多くの人に読者になってもらう

それを狙うために、全ての人に受けるものを書く

それによって

消えてしまう独自性があると思う。

 

どんなに読まれるようになっても、

そこに人が見えなかったらいつか限界が来る

そして、無理をしていた自分にも限界が来る。

もし、作り上げたものではなくて

その人独自のものだったなら、

書いている本人に「無理」はこないはず。

たくさんの読者を得ることはできなくても、書きたいものを書けるはず。

 

 

この文は自分にとっても戒めの文。

ブログを書いてみることは、

読者を増やすためでもなくて、アクセスを増やすためでもない。

 

 自分の目的を知るということ。

 

 

 

私が読んでいて楽しいブログは、

エンターテインメントのような作られたものではなくて、

その場その場で、その人が感じたことや考えたことを知れるブログ

そういった独自性のあるものを書くためにブログが生まれたと思っているから。

 

 

この向こうにはこんな人がいるんだろうな、

こういう考えを持った人が感じていることなんだな、

そんな風に、文の向こうに人が感じられるブログが好き。

 

  

何が正解かどれが正解か、まだわからないけれど

もやもやするので書いてしまいました。

 

少し前に書いた記事とあまりにテイストが違いますが

 こういう一面もあるということで。

 

乱文失礼しました。