月の葉っぱ

夜明けはもうすぐそこに。

満月の日

きのうは9月9日

父は満月の日だね、と言っていた

なんで満月の日なの?と聞いても、

おばあちゃんがそう言ってたからとしか答えてくれない

 

小さい頃からずっと、9月9日は

父と父の母は一緒に月を見ていたみたい

 

昨日は曇っていたから月は見えなかった

でも、父には月が見えているようだった

おばあちゃんと見たなぁとつぶやいて、

空を眺めている

 

私に合わせて、自分の母を「おばあちゃん」と言う所が、父がただ息子であったという頃ではなく、父になった、父になってしまった、ということを表している気がする。それでも、空を見る父の気持ちは、母と一緒に見ていた頃の気持ちと同じだった。

 

昨日は月が見えなかったけれど、

曇り空の中にあるだけで、

私も、父が見ていた月が見えた気がした。

 

今日もどことなく曇っていて、

何も見えないけれど、

父の話を思い出していたら、

クリーム色のほんのりあたたかいような月が

頭の中に浮かんだ。

 

今日はこの月が、

今日の夜を、ほんのり照らしてくれる。

 

多くのものを求める先は、

「多くのものを 求める先は 周りじゃなくて 

自分自身だろう」

GReeeeNの「夢」という歌の一節です。この歌を知ってから、何度も聴くたびにこの言葉だけが耳に響いていました。でも、それは理解できたからではなく、理由なく、耳に残っていました。他の人が聴くと、きっと他の部分が耳に残るのでしょう。では、どうして私はこの言葉を聞き取っていたのだろうとずっと不思議でいました。何度聴いても、ここだけがはっきりと聞こえてきて、その言葉はずっと頭の中にありました。この部分は自分にとって聞くべきところなのか、それとも自分にとってあてはまるからなのかと、聴くたびになんでだろうと思っていました。

 

不思議だからこそ、知りたかった。よくわからないからこそ、知りたかった。でも、いつまでもわからないからもやもやして、何か言いたいのに言えないと息苦しかった。

 

何度も聴いてわからないから、あえてはなれておこうと、しばらく聴かずにいました。それでも、「求める先は自分自身だろう」と何度も聴こえてくる。この言葉を理解したい、なぜ自分に響くのかも知りたい。ずっと長い間、頭の片隅に入れていて、あるときふと思い出しました。

 

…「さぁ話してみて」と先生が話を振ったとき、私は「何ももっていないから何も話すことがない」と言いました。そうすると、

「案外、人にはたくさんのものがつまっているんだよ。探してみて」と返事が返ってきました。…

 

この一場面だけをふと思い出して、もしかしたらこれかもしれないと思える答えにたどり着きました。今はまだそれが正解かなと思えるだけで、いつかまた違う答えが見えてくるのかもしれません。

 

「多くのものを」

私にとってこの「もの」とは、答え、ではないかと今、思っています。

 

多くの答えを求める先は、

周りじゃなくて、自分自身だろう

 

私はいつも自分で答えを知りたい、と感じています。自分で考えて、自分の答えを見つけ出したいと思っています。その答えは、すでにあるものではなくて、人の口から伝えられるものでもないと思っています。でも、決して見つからない、見たこともないということではなく、自分の奥深くにあって見えなくなってるだけではないかと考えています。その答えを知るために、多くの人に触れ、多くの本に触れる。それによって、何かを思いだし、答えを見つける一歩になると信じ、多くのものに触れようとしています。

 

もっともっと、根源から「何か」を求めていて、もっと中にある答えを知りたいといつも思っています。だから、人に聞いたり、悩み相談をしたりしても、満たされることはないと思います。人の力も借りるべき時もあるはず。でも、とことん自分に聞いてみたい。とことん自分に聞いて、答えを知りたい。

 

だからこそ、「自分自身だろう」という言葉がいつまでも心の中に残っていたのだろう、と、今はその言葉が耳に残った理由だけがわかりました。

 

 

読んでいただきありがとうございました。

 

 

 

 

書けないけど書いてみたい

 書いてみたいことがあっても、どうしても書き上げることができなくて、下書きばかりたまっていく。でも今日は、昨日の苦しみは何だったのと笑ってしまうくらいの快晴。

 

みんな、笑っていながら息苦しさを抱えているのかな。

みんな、楽しそうな日々を過ごしながらも悩んでいるのかな。

 

昨日はずっとGReeeeNの「夢」を聞いていて、何か書いてみたくて書こうとしてみるのに、もやもやした感情と気持ちしか浮かばなかった。のどの奥まで、何か言いたいとうずいているのにそれが表現できなくて、ずっと息苦しかった。今までは浮かんだ言葉を書いてみるだけのただの貼り付け作業のようだったのかもと振り返り、ただの駄文を量産してしまうことに何の意味があるのだろうと我に返って、息苦しくなった。どうして書いてみたいと思うようになったのか、始めてから2つめくらいの記事を見てみた。この時は読者もアクセスも0だったと思う。でも、今読んでみても、これを書いていた時の楽しさを思い出すことができる。きっと何か書きたかったからなんだ、と思い出せた。書いているときが楽しかったんだなと思う。

 

atamatokokoro.hatenablog.com

 

でも、これからは「書いてみたい」を本当に書いてみたい。きっとこれからも、思いついた言葉を張り合わせるような記事も書きたいと思う。でも、次はそれを超えるようになりたい。のどの奥でうずいている「何か」が書けるようになりたい。1段階上がりたい。いずれは、張り合わせたような言葉でも、その中に「何か」が表現できているようになりたい。そして、始めた頃の気持ちも忘れずに、書いているときの楽しさをいつまでも持っていたい。

 

次はGReeeeNの「夢」について「何か」書きたい。

今の息苦しさと、書いてみたいと思う楽しさを、たくさん入れて、表現してみたい。

そんな、ちょっとした決意を自分にしてみた。

 

書いてみたいけど書けない、から

書けないけど書いてみたい、へ。

そして書いてみたいから書いてみる。

最後には書いてみたいから書けた。

 

そんなふうにステップアップしていこうと思えた。

今日の晴れは、そんな日にぴったりだ。

 

夢 - GReeeeN - 歌詞 : 歌ネット

 

文の味

文のテイストという言葉を

どこかで見かけた気がする

 

最近はいろんな文の味見をしてみている

 

ミントのようにさわやかな味がする文

甘い味がする文

旨味があるような文も

味がしないものもある

食べたことのない味も、

ほんのたまに、おいしくない文も

 

いろんな味がある。

人が生み出す文にはきっと必ず味があって、

それでも、決まった書き方で仕上げるとき、

味がしなくなるような気がする。

 

たくさんの文の味を見ていると

お気に入りの味を見つけることができる

自分もいろんな味付けをしてみて

その味へ近づけていこうと試みる

 

お気に入りはミントのようにさわやかで

風が通るようなもの

 油っぽい文は苦手だったり

(うまく説明できないけれど、読んで、ん~~と唸ったり、ちょっと胃もたれするような)

 

たくさんのブログを読んでみて、

自分がどんな味をつくりたいか、考えてみる

 

自分の味が確立できたら、

またたくさんの味見をしにいく

 

透明度が高く、みずみずしい文

そんな文に憧れながら、自分の味を作っていきたいなと、まだ味をもたないミニミニブログはそんなことを思っていました…

 

 

本を書き写す

図書館でお気に入りの本を見つけました。これはきっと何度借りても自分のものにならない限り納得しないだろうなと思ったので買うことにしました。でもその本は結構古くて、ベストセラーになった本でもないためもう販売されていないようでした。中古でも見つかる可能性も低く、とても高い値段になってしまうため、もうこうするしかないと決め、数日前からしてきました。

 

その本の中身を全て書き写す。もう途方もなかったです。コピーすればいいとも思ったけれど、家にコピー機はないし外でやるにしてもずっとしていられないし…こんなにも時間があるのはきっと今しかないので、無駄と思えることをやってみようと思い実行しました。詩集のような本でしたので、小説や新書を書き写すほどのしんどさはなかったものの結構な疲れが出ました。でも書き写し切った今、やってよかったなと思えることがいくつかありました。

 

手書きで全て書くことで、書いているときの自分の体調と感情が分かりました。書き始めはきっちり書こうと張り切りすぎて、字がきつく濃くなっていました。また、書き写しているときに遊びのキャンセルの連絡が入ったりすると、荒れた字になり、何度も書き間違えたり、字が落ち着いていなかったりしていました。当日のキャンセルだとなかなか嫌になるものです。(心が小さい…)逆に、気分が良く、落ち着いているときはゆっくりと書いていて、字も丁寧に書かれてあったりします。何より、一番初めに気づくことは、字が汚い!パソコンやスマホに慣れて、夏休みの間たくさん字を書くことをしてこなかったからですね。

手書きをすることで体調確認ができる、と気づいたことが1つです。

 

 

もう1つは文字と言葉に敏感になれたことです。ここで「を」は必要ないの?とか、この表現はひらがなで書くほうがいいのか、とかいろいろ思いながら書いていました。ここに改行があるのは読み手がいったん休憩するためなのかな、など改行や句読点についても頻繁に反応していました。普段、急いで読んだりする時はそんなことを意識しないので、今まで気づかないこともありました。

 

 

あと1つは、その時間が案外楽しかったということです。書き写している間は、まるで写経のような時間でしたので、わりと心地よく、いつまでもこんな時間の中にいたいな、なんて思っていました。最後のほうには、この書き写しがもうそろそろ終わってしまうんだなと少し悲しくなったりしました。今回初めて使った本型のノートも、始めは分厚くて書きにくかったけれど、書くたびに安定してきて、でも最後はまた書きにくくなってなど、そんなノートとのやり取りも楽しんでいました。鉛筆の先がどんどん削れていく感じも少し楽しかったです。

 

 

無駄なようで無駄でなかったこと、やってみてよかったと思いました。手書きで写したノート(本?)は時間をかけて作ったものなので、きっといつまでも自分にとって大切なものになると思います。いずれ、この本の存在を見たとき、あの時はそんなにも時間があったのかと驚愕すると思います。

 

 

夏休みの内にもう1冊、書き写してみようかな、と思っています。

 

 

読んで頂きありがとうございました。

 

句読点の「。」

何にもない日こそ、

頭の中はずっとぐるぐる考えている。

自分の中の会話がうるさくなるほど、

何か言っている。

 

逆に何かイベントがある日は、

頭の中はとても静かで、帰ってみると

今日は何かを考えたかな、と不安になる。

 

頭の中がぐるぐるぐるぐる考えて、

思ったことや考えたことであふれて、

パンクしそうになったらあえて思考停止してみる

 

そんなとき、句読点の「。」を使って

思考をストップさせる

 

(これからどうしよう不安だもやもやするどうしよう何をしよう)…。←ストップ!

(私が言いたいことはそうではなくてかといってそういうことでもなくて)…。←ストップ!

 

しんどいときもまる。

うまくまとまらないときもまる。

 

句読点の丸のかわいさと優しさが、

すべて包んでくれる。

 

ひとつの単語にひとつの丸

たったそれだけで丸をつけるの?

と思うときも、

そう思える楽しさが「。」にはある。

 

それだけでいいなぁと思えることある

今の季節だと

秋。

これだけですべて含んでいるような、

むしろこれだけだからこそ良い

飾っていないからこそ

それぞれの、秋が反映できるような

特定されない秋がうつされる。

 

 

うまくまとまらないならそれでいい、

一旦ストップして丸で閉じてしまう。

まとまらない考えはいつまでも持っておかずに、

一旦閉じてしまおう。

 

 

あたまの中、つかれたら

「。」

それを

あたまの中に置く。

 

 

 

 

 

てっていてきに

 

徹底的に!という文字だと

すごくきつくて厳しくてこわい

 

でも、てっていてきに、という文字なら

なんだかくすっと笑えて

がんばってみようかな、なんて思えたりする

 

そのほかには、「真っ白い」という文字

これもやっぱり「真っ白い」より「まっ白い」

その方がほわほわとしているようで、

なんだか温かみがあるような気がする

 

さらに「カゴバック」については、

「かごバック」が良いかなと思ったりする

「かごばっく」は変だなぁとか。

 

 

あとひとつは「探す」

この「探す」だと本当に見つけないとダメ

といわれているような切迫感があるけれど、

「さがす」なら、見つけてみようかな、

見つけると良いことありそうだなと

少し気が楽になる

 

 

漢字をひらがなにしてみると

案外気が楽になる気がする

 

なんだか苦しいと思うような目標は

いっそのことひらがなで書いてみようと思った

 

目標を達成する!頑張ろう!頑張る!

もくひょうをたっせいする!がんばろう!がんばる!

 

ハードルがひとつ下がったようで

がんばれそうな気がします。