月の葉っぱ

夜明けはもうすぐそこに。

語りかけるブログ

読者さんが多いブログを見ていると、これは「語りかけるブログ」だなぁとよく思います。

そのテーマを知らない人にも分かるように、優しく伝わるように、しゃがんで目線を下げて、こうだよって教えてくれるような気がします。笑顔つきで教えてくれるような、そんなイメージを持ちます。

 

書いたまま、このまま理解して!という感じではなく、こんなことあるんです、こんなふうに考えると楽しいですよ、よかったらどうですか?というような優しさがあふれているような気がします。難しい文でもなく、分かりにくい文でもなく、優しくて易しい文。それでいて、それだけでなく、心にすっと入ってくる。心にずかずかと入ってくるわけでもない、一緒に笑おうって言ってくれてるような、そんな気がします。読んであたたかくなったり、くすっと笑えたり、読んだあと軽くなったり。読者さんが多いブログは、読んだあと、その人が少しでも変化しているのだろうと思います。だからきっと、また読みたいと思うのかなと思います。


自分の失敗を軽やかに書いていたり、かといってあまりにも自分を卑下しているわけでもない、そんな体験談などが読者の心に響くのかなと感じます。

 

私は素直な感情があらわれているようなやわらかい文が好きです。そういった感情は、表現されないと外にいる人は知ることができません。その人だけが感じた素直な感情を、たくさん知ってみたいといつも思っています。その人だけが感じる感情は、すべての人と同じでないからこそ、すべての人が表現してみることに意味があるのではないかと感じます。


どんなに短くても好きな文にはその人が表れています。どんなに長くても好きになれない文はその人が見えないからあまり好きにはなれません。言いたいことが目立たせてあっても、心に残らなかったりすることもあります。

 

あとひとつは、誰の言葉も借りない、自分の言葉でかかれてあるブログが好きです。聞いたことのある言葉がたくさんあるブログは、あえて読もうとは思わないと思います。どれも伝えたい言葉が自分の言葉で、誰かの言葉を使っていないとき、誰の言葉も借りていないとき、人の心を打つような記事がかけるのではないかなと思います。

 

たくさんのブログを読んでみて気づいたことは、ひとびとに語りかけるブログが読者の心をつかむのだな、ということでした。自分が語りかけるブログを書けるかといったら、今はまだ書けないような気がします。今は自己満足するだけでも精一杯なので。でも、目指していけるようになれたらいいなと思っています。

 

 

 

 

否定しない

 

自分をも、他人をも否定しない。

そんな人になりたい。

 

相手の言うことが嘘や、

見栄や虚栄であっても、

そうなんやって明るく柔らかく

相手を包み込めるような、そんな人になりたい

 

思ったことをそのまま話さずに

相手がかけてもらえたら嬉しい、という言葉を

読み取れるようになって

丁寧に伝えられるようになれたらな

 

多くを語らずに過ご していきたいと思う

 

8月が終わる

今日はミントのような風、

今日の風もいいかおり

すずしくてひんやり

 

8月は何かして何か準備して

何か答えを出さねばと

何かしなきゃと焦っていました

 8という数字のように同じところを迷ったり

何度も同じことで落ち込んだり

 

そんな焦りも一旦終了

9月はもう一度8月のように考えてみても

9の数字のように一度答えを出せる気がします

一度どこかへ到着できると、落ち着いて、

自分らしくいれる気がして安心しています

 

8月が終わる。

焦りと不安で落ち着かなかった8月が終わる。

そして、9月が始まる。

一度答えを出せそうな、ちょっと心が軽くなるような希望を持って9月が始まる。

 

この8月がなかったら9月に答えはでないし

この9月がなかったら8月をいつまでも続けなくてはいけない

 

長く一緒にいた8月とお別れして

新しい9月と出会う

 

9月、仲良くしましょう!

 

 

 

大好きな友達の笑顔と笑い声

 

大好きな友達の笑顔と笑い声

それと話し声、その子がくれた言葉

 

そのとき消えてしまわないように

ふんわりつつんで、

お気に入りの袋に詰めてみたい

 

そしたらいつも鞄の中にいれておける

しんどくなったとき、それを開いて元気を出す

さみしくなったとき、それを開いてその子の温かさを思い出す

自分が幸せな気持ちになったときも、その袋に入れてその子に感謝する

 

それなら長い期間会えなくても

いつもあたたかい気持ちでいられる

 

そんなお気に入りの袋を

目に見える形でも、

目に見えない形でもいい、

いつもそばに持っていたい

 

もちろん、

袋の素材は木綿や絹で

手ざわりも、幸せ感あふれるものがいいな

 

 

好きなことを特定してしまうこと

好きなことを特定できれば、それは幸せ。

でもまだ、今、特定してしまいたくない、はっきりと言いたくないと感じる。今、特定してしまえば、それに決めつけられてしまうような気がする。好きなこと、のはずが、それが苦しいと感じてしまうような気がしてしまう。

ある時にふりかえってみて、やっぱり私はこれが好きだったんだと確認できたときが一番幸せな気がする。

好きなことがまだ何か分からない、まだ特定はできない。そんなときは特定してしまわずに模索し続けていたい。決めつけてしまわずに、自分の枠から常にはみだして、外へ出ていきたい。

好きなことって、簡単に分かるものではない気がする。まだ自分の知らないところに、自分の一生と思えるくらいの「好き」があるかもしれない。

いろんな人の、好きなことで生きていく、という言葉を聞くと心にわだかまりができる。みんな、もう好きなことが分かっているのかと。本当にわかっているのかなと。

 

決めてしまう方がきっと楽だし、楽しい。

でも決めてしまわずにいつまでも探し続けてみたい。探して探して、ようやく見つけたとき、その時に、やっぱりこれだと思えたときが一番幸せなんだと思う。今はそう感じる。

名前の思い出

 小学生の頃に流行った、名前の文字数で天国地獄を決める遊びがあった。私の名前は合計で6文字。天国地獄大地獄を2回繰り返すともちろん大地獄になる。その時私は、大地獄になることがとても嫌で何度も両親に名前の最後に「子」をつけてほしいと言った。子をつければ天国となるから。その時の父の表情と言ったらこの上なく暗く沈んでいた。今思い出すと、名前が6文字の人なんて大勢いる。たったそれだけで名前を変えたいなんて今思うとこわくて仕方がない。あの時、両親が名前を変えようと思ってくれなくて本当によかった。画数も漢字も何度も何度も時間をかけて考えた名前を、私のたった一言で変わってしまうことなんてなくてよかった。でも、その時はその時で、名前の文字が大地獄なんてこの先怖くて、どうしても天国の文字数にしたかったのだと思う。何度も名前を変えたいと言い続けたのはきっとほんの数日だったかもしれない。その遊びが流行っていた期間だけだったのだろう。私にとってその数日は、これからが大地獄なのかと沈み、両親にとっては名前を変えたいなんてと心から悲しかったのだと思う。あの時間は私にとってどんな意味があったのだろう。そして、名前を変えたいと言われた悲しさを受けた両親にとって、あの時間はどんな意味があったのだろう。なぜ名前を変えたいか、その理由を言えばよかった。そうしたら、なんだそんなこと、と悲しまずに済んだのに。

マスキングテープの表情

 

手持ちのマスキングテープを並べる

たてに並べたり、よこに並べたり

重ねてみたりする

 

たてに並べると

マスキングテープに印刷された、

もともとから意図された表情

 

よこに並べると

意図された表情が集まることで、

意図せずうまれた表情がある

マスキングテープの天井の絵

 

重ねてみたら

中の段ボールがつながって

ひとつのマスキングテープの絵が

次のマスキングテープの絵へと

回転しながら移動していくような気がする

マステの天井の絵によって回転するスピードも違ってくる

全く回転していないように見えるものもある

 

少しずつずらして重ねてみる

またそれもよし。

 

 

突然予定がなくなると

呆然となって、ぼーっと何かを見つめる時間が長くなる

 

そんなことで、今日はマスキングテープを見ていました。