月の葉っぱ

夜明けはもうすぐそこに。

雨に恋する

 

せっかく傘を持っているのなら

雨がふってほしい

 

さっき、やんだばかりでも

ふってほしいな、

なんて思いながら傘をさし続ける

 

みんな傘を畳はじめて

折り畳み傘の人は鞄の中へ

でも私は、

降ってるのか降ってないのかわからない、

なんて表情をしながら、傘をさしている

 

雨の音、雨のにおいが好きだから、

あえて雨の中お出掛けしたりする

 

晴れの時より人が少ないから

思う存分散歩が楽しめる

 

あめ、ふらないかなぁ

でも、あめがやんだから、

颯爽と自転車をこぐ人もいる

あめにぬれた道路を、

晴れた喜びと一緒に走り抜ける

それもいいなぁ

 

暑い日が続くと雨が恋しくなる

本を返す日が雨だと、

濡れそうで少し不安になるけれど。

 

傘の中の自分の空間が好き

雨が降ったあとの静けさが好き

降っているときの静けさも好き

傘が好き

 

あめのにおいも

あめがふったあとのにおいも

 

雨のある音も

雨のない音も

みんな好き

 

雨がないときの、風があらわれる音

またその風が吹く音

どれも好き

 

雨さんよ、降って降って、

人に雨の音と静けさを。

 

 

声と人と不思議

 

なぜか、

あまりにも声が通らない日というものがあって

そんな日は何を言っても、何度言っても

相手に聞こえていないし

 

ようやく届いた声を聞いても

会話はとんと盛り上がらない

相手はなんにも全く関心を示さない

 

逆に 、

つぶやく感じの小さな声でも通る日がある

思い付いた言葉をほろっと言ったときは案外しっかり聞かれていたりする

 

なんでだろう、不思議 

 

どちらの日も、

私は何かを伝えたくて、声を発しているのに、

伝わる日と伝わらない日がある

 

それは私の心の気分が関係してるのかな、

と思っていた。

でも、元気なときに何度も話しかけて、聞こえていない日もある。

そんな日は元気だった気分はすっかり消えて、不機嫌になる。

 

特別元気でもないとき、小さな声が通ることもある。

でもそんなときは、嬉しいわけではなく、

こんな声でも聞こえてるの、と少し怖くなることもある。

 

 

相手に聞こえていないときって

もしかして、自分は声を発していないんじゃないかと思うこともある。

自分の内側に向かって大声で声を発しているだけだったりして。

 

なんて考えながら、

どうしたら相手に声が伝わるのかな

といつも不思議に思っている

 

なんでだろう

なんでかな

 

ほんと、不思議

 

 

今日は藍染の空

 

今日の空は、

藍染のような空

紺色の空と淡く白い雲

まるで藍染めしたときの、

その時にしかうまれない不思議な模様の様な空

 

手の届かない、とっても高い空  

空はとても高く

空気も澄んでいて

柔らかい空気で 心地良い

 

なんだか秋が訪れたような気がした

この落ち着いた夜空の雰囲気は

お盆という季節柄かな

 

この不思議な空と、

この不思議な季節感、

今だけの不思議な空気感にもっと触れたい

今だけだから、もっと外に出てみよう

 

すいこむ空気から、なんとなく

季節の変わり目がわかったりしないかな

そしたら今はどんな季節なのか、

空気をすいこむだけでわかるのに

 

今日の手の届かない藍染の空

きっと手触りも肌触りもいいんだろうなぁ

 

藍染と言う言葉と、8月13日と言う言葉が

なんだか合っているような気がする 

 

どれも理由なくなんとなくそう思ったことばかり、でも今日の日付と藍染という言葉がすべてまとめてくれるような、今日は不思議な空気感にずっと包まれている

 

 

 

苦境とタネ

 

苦境の中にいる人の方が

幸せを感じとることができる

 

この苦境の中で何か感謝すべきことはないか

この苦境が教えてくれることは何か

と、その中にある幸せを感じ取ろうとする

 

そこにあるものを感じ取ろうとして

毎日を過ごしてきた人は、きっと幸せになれる

いつも幸福のタネを探そうとしているから

 

そのタネを探し、見つけ、

幸せを感じていたら、もう苦境を乗り越えているはず

 

そんなふうに、毎日、どんな環境にいようと

タネを探して大切に持っていようと思う

 

そのタネがどんな花を咲かしてくれるかは

今の私にはまだわからないから

 

 

 

 

自分への評価

 

自分を正しく、客観的に、

評価できたなら

 

誉め言葉に浮かれることもなく

けなし言葉に沈むこともない

 

誉め言葉に浮かれてしまえば、

自分はそこからさらに上を目指そうとなれない

 

けなし言葉に沈んでしまえば

それが例え本当でなくても、それに近づいてしまう

 

自分を遠くから見つめて、

客観的に評価する

 

大きく評価せず、小さく評価せず、

ただそのまま、そのままを評価する

 

自分が評価した結果があれば

いろんな人に評価されることがあっても心が荒れることはない

 

だから、人と比べることもなくなるはず

自分はこれができている

自分はこれができていない

それが把握できれば、心に余裕ができて、

自分は何を目指すべきかわかるようになる

 

自分をとおくから評価してみる

案外、自分のいいところ、

たくさん出てくるかもしれない

 

 

 

大学生の遊び

 

大学生だから遊ばなきゃ

大学生だから外へ出なきゃ

大学生だから、大学生なんだから、大学生なのに…

 

大学生だから遊ぶ

それはどんな意味?遊ぶってどんなこと?

 

遊ばないとおもしろい人になれない?

どうして遊びが大事なの?

どんな遊びが大切なの?

 

知り合って、ただ軽い話をして、

ただ遊ぶだけ

 

ただ飲んで、楽をして、みんなの話に合わせて、

ただ笑うだけ

 

そういう遊びが必要なの?

それとも遊ばなきゃという言葉にはもっと深い意味があるの?

 

こう遊ぶ、と用意された場所で

用意されたもので遊ぶ、

それで楽しむ。用意された乗り物で、遊んで、写真撮って…で、それで…?

 

そんなの楽しいのかな。

 

私にとっての遊びは、人と出会うこと

どんな場所でもいい

話題の場所とかでなく、

インスタ映えするところでもなく

 

私は、深く、

心から笑い合える友達と

心から笑い合える会話がしたい。

 

多くの人が、これ楽しいよ!こんなことして遊ぼうよ!とすすめる遊びではうまく楽しめない。

 

もっと遊べよ、と言われる。

 

遊んでないように見えるけど、

私は、話し合える人と、たくさん話し合えることができたとき、心から楽しめている

だからそれが私にとっての遊び

 

のめりこめる本に出会えたときも、

話したいと思える人に出会えたときも、

私の中では楽しさに溢れている

 

これをずっと学んでいたい

というテーマをすこしでも見つけたとき

それを少しでも自分なりに学び始めたとき

そこで新しく学んで頭の中の世界が少しずつひろがっていくとき

そんなとき、あたまの中は遊びでいっぱい

 

比べることはできないけれど、

多くの人が集まる遊び場で遊ぶより、

私は、知りたいと思えて、それを知ることができるほうがよっぽど楽しいと感じる

 

もっともっと、深く、根源から

楽しみを感じたい。

 

浅い笑いや、浅い楽しみからは、

深く、あぁ良いなぁと思える楽しさは感じられない。浅い楽しみの中にいるとき、むしろ私は他の人のように楽しむことができないから、苦しくなってしまう。せっかく楽しむ場所なのに、どうして楽しめないのだろうと。

 

きっとそこには私の知らない楽しさがある。でも今は、私にとっての楽しみ、遊びは人と出会うこと。それだけでいい。みんながわかる楽しみは、私にはわからなくても、今の私には、今楽しめる遊びがあるから。

 

たくさんの人に出会えば出会えるほど

どんどん外へ広がっていって

一日に楽しさを感じる瞬間が増えてくる

新しい人に出会う度に、新しい考えを知って

それを思い出したり、なるほどと思ったり、

よくわからないと感じたり

 

 

みんなの遊びたい、という気持ちと

私の人に出会いたい、という気持ちは同じはず

 

外から見たら、大学生なのに遊ばないなんてと思われる

 

でも私は遊んでいるよ、楽しんでる

外から見た分かりやすい遊びじゃなきゃダメですか?簡単な言葉で遊べる遊びを語った方が聞く方も納得しますか?

 

 

いつももやもやする

いつも苦しくなる

遊びって、人それぞれのものなのに

 

「大学生は遊ばなきゃ」

その言葉だけ、その遊びに含まれた経験が制限されているような気がする

 

その遊び、すべての大学生がすべきことなの?

 

たくさんある時間の使い方は自由なのに

模範解答のような使い方が、こう過ごすべきと襲ってくるような気がしてしまう

 

みんなと同じ遊び、しなきゃダメですか。

たとえ楽しいと感じなくても。