小さな大学生

   言葉にあらわせられるか、あらわせられないか、 そんな感じ。

「いつかの痛みは誰かの為」

 

「いつかの痛みは誰かの為」

 

GReeeeNの花唄の歌詞です。

誰のどんな苦しい体験も、いつか誰かを救うためにあるのかもしれません。

私もそうだった。でも私は今それを乗り越えて次へ進めているよ。そんな経験が人へ伝わると、人は心が救われると思います。

苦しい経験の痛み、苦しかった経験の痛み、その痛みを、無理に押し込んで隠さないでほしい。ただポジティブにとらえようと記憶を塗り替えるのでもなく、ただ苦しかった、そのままの経験をそのまま持っていることで、いつか誰かを救うきっかけになると思います。

 

私は、こんなことあったけどこう考えると楽しいよ、とか、こうすればそれは長所になって利点になる、その辛い経験はこう表現すれば良い話になるよ、そんなふうな話が苦手です。私は、その人が経験したそのままの経験と、その人が感じたそのままの感情が知りたい。

 

ただそのままを表現して、そのままを知りたい。

 

その人にとっても、記憶をすべてよかったとまとめてしまうより、あのときはこんなにも辛かった、そんな記憶を大切に持っていることで、誰かを救えると思うのです。だれかがそれを聞いたとき、きっと、必ず、救われると思います。

 

そのままを伝えるから、そのままを知るから、その経験とその感情、そこから生まれた言葉が心を打つのではないでしょうか。

「そのまま」にあらゆる手段をぬりつけて、本来見えなくてはいけないものが見えにくくなってしまったら、誰のためにもならないし、自分のためにもならない。そしてその経験は、他の誰かのためになったかもしれないのに、その機会を失ってしまう。

 

人の役に立つ、そんな立派なこと、なかなかできない。ずっと、そう思ってきました。でも、すべてのひとが、すべてのひとの役に立つ、とこの言葉を聞いて思いました。すべてのひとが自分が経験してきたことを誰かに話すことで、その誰かがそこから学んだり、感じたり、救われたりする。相手が何も思っていないように見えても、きっと何かを得ていると思います。また、誰かが発信することで誰かの心が救われる。誰もが人を救っている。自分の経験を話すだけで、誰かが学びを得る。そのとき自分は、その経験をして、その人だけが感じる感情を得て、その人だけの経験を持っているたったひとつの大切な人になれると思うのです。すべての人がだれかを救える。すべての人が誰かの役に立てる。今はそう思います。

 

だから、どんなに苦しい日も、いつかだれかを救う大切な教えになるかもしれない。

だれのためになるのかわからない。それは、それを乗り越えた未来の自分のためになるのかもしれない。自分の全く知らない人のためになっているのかもしれない。その人とつながることはなくても。誰のためにもならない!そう思っても、まずは自分がそこから学んでいるはず。だから人(自分)のためになっている。

 

この言葉を知れたことで、いつまでも、どんな困難も乗り越えていけそうな気がします。そして、そのまま、を持ち続けることで、すべての人が画一化されることなくその人だけの個性が花ひらくと思います。

 

まだまだ学ぶ経験を経ていない、ここにいる大学生は思います。できすぎた成功例を知りたいのではない。あふれでる成功話を読みたいのではない。ただ、あらゆる人が経験したこと、感じたこと、そのままを知りたいと、今ここにいる大学生は、そう感じています。

 

日々近づいてくる就活準備に心をざわつかせながら…

みんなでのんびり日曜日

 

今日はひさしぶりに一日中家族と過ごした。朝はみんなゆっくり起きてきて、みんなで録画を見ながらゆっくり朝ごはんを食べる。暮らしの手帖ー戦争の記録、それを見ながらみんな思い思いに、気づいたことをつぶやく。

みんなでごはんを食べることも、みんなでテレビを見ることも久しぶりのこと。もっと言えば、みんなでこんなにもゆっくり話すことも久しぶり。

 

ゆっくりした朝ごはんを食べ終えたら、各自したいことをしに部屋へ戻っていく。私は昨日の本の続きを読む。夏休み、新潮文庫の100冊を読んでいこうと決めた。まだ、名作と呼ばれる本を少しも読めていない。だから今読み始めた。なんとか今読んでいる、車輪の下は夏の思い出になりそうなくらい、興味深く読めている。

 

本を読んでから、一応夏休み始まった頃に立てた計画のTOEICをする。続けられることを目標に立てたから一日の量は少ないけれど、まぁやらないよりはいいかななんて思いながら毎日仕上げている。家族みんな、各自何をしているのか知らない。入り込まない、ちょうどいい距離感。みんないるけど、それぞれの時間を過ごす。一人でいるときのそれぞれの時間と、みんなでいるときのそれぞれの時間は、きっと安心感がまるで違うんだろうな。

 

スイカ買ってきたよ~食べよ~

父の声でみんな下に降りてきて、またみんなでスイカを食べる。父のスイカの食べ方にみんなで笑う。スイカを大事そうに持って、こぼれる!と焦りながらスイカを一生懸命食べる。種の出し方がその一生懸命さと反対して、適当に、なんでもないかのようにぷっと出す。その流れにみんな笑いながらスイカタイムを過ごした。

 

そのあと父と母はひさびさに、ふたりでたくさん話していたみたい。これからについて、お金について、そんな、ただおもしろいだけの会話でなく、必要な会話だったのだろうけど、今日一日父も母も満足した笑顔だった。

 

私はまた車輪の下を読んでいたのだけど、いつのまにか少し寝ていた。興味深く読めるなんて言っておきながら寝るなんて…。

 

 あとはいつもどおりの日常。

今日はいちだんとのんびりした日だった。何にもなかったけど、みんなすっかり休めた。何か充実したわけでも、何か達成したわけでもないけれど、みんな少し表情が豊かになったかもしれない。

 

そんな、なんてことない日こそ記録してみたい一日だった。大学生らしくない一日。でも、大学生らしいとか、らしくないとか、そんなの気にしなくていいや。ただ、今日、そんな日があったって記録がいつか思い出になるのかな、なんて思いながら記録してみたかったのだ。

 

特になんにもないけど何かある大学生の日常⑧

 

 

好きなことよりできること?

 

高校の頃に出会った先生は、好きなことよりできることをした方がいい、と言っていた。できることをした方が、自信もつくし、繰り返しているうちにきっと好きになるだろうからと。

 

でもそれじゃなんか楽しくないような気がする、とずっと思っていた。すでにできていることをやり続ける、それでそれを好きになるだろうか。

 

好きなことは楽しい。

でもなかなか芽がでない。

 

好きなことって、よく"うまくいかない"とセットで考えられる気がする。なんでうまくいかないのか。もしかすると、好きなことって自分ができることの対極にある、と考えているから、あこがれを持って、好き、と感じているのかもしれない。

 

好きなことってもしかしたら勘違い?

好きなことはあえて自分ができないことをわざわざ探してきて、それができる自分に憧れを持っていて、やっぱり好きなことで生きるのって難しい、とか考えたりする。

 

じゃあなんで、自分ができることはなぜ自分はできるのか。そう考えると、今までの自分は、それがなんの理由もなく好きで、続けて、繰り返していたからできるようになったんじゃないかと思う。ならばできることは、本来自分が好きなことなんじゃないかな。できることをなぜ自分はできるのか考えてみたら自分の本来の好きが見つかるのかもしれない。

 

じゃあ好きってなんだ!

好きなことってなんだ!

 

きっと、考えて考えて理由をつけた好きなことが無理があるものなのだろう。そして、なんの理由もなく好きなものが本当に自分の好きなことになるんだろうな。それに気づくには、あらゆる考えに覆われた自分を初期化して、ふと感じる自分の素直な思いを聞いてみないとわからないのかもしれない。

 

理由があって好きなこと。

理由がなくて好きなこと。

好きなこととできること。

 

なんの理由もなくできることが、

自分にとっての本当の好きなこと。

それなら、自分の道筋がほんのり照らされるような、そんな気がする。

 

 

今を生きる?目標を見る?

 

今を生きよう、今を生きろ

どんな人の言葉にも、どんな人の本にも書かれてある

 

今しかないその瞬間を生きる大切さ

分かる。今に集中すればするほど得るものも多い。わかると思う。

 

でも、

これからの高い目標を掲げながら

今を生きることって、とても難しいんじゃないかと思う。両立は難しい。

 

今を懸命に生きているとき、遠くの目標を見ることはない

遠くの目標を見ているとき、今そこにいる瞬間を生きているかといったら、どうかな。

 

その瞬間を生きながら、遠くの目標も見る

そしたら、

今を生きることはできても

今を生きることだけに集中しているときよりは集中できてないのかもしれない

 

きっと、比較するものではないのだろう

 

遠くの目標だけを見ているとき、

その瞬間を生きることはできていない

でも、その遠くを見ていると言う瞬間は生きることができている

 

どっちが大切かなんてわからないけれど

きっと、バランスが大切なんだろうな

 

と、

ほわほわと思う土曜日の午後。

 

1日の中の静かな時間

 

いつも、ブログを書く前には

スマホの画面をきれいにする

 

やわらかい布でふいて、まっさらにする

 

そしたら、なんとなく、心地いい気分で書ける

なんとなく、うまくかけたような気分になれる

 

無駄なことも書きすぎないように

感情的になりすぎないように

そんな気持ちも込めながら、画面をふく

 

画面をふいている時間も

考えている時間も

書いている時間も、とっても静か

その静かな時間が自分にとっての幸せ時間

 

その静かな時間で、本来の自分に戻っていくような気持ちになれる

 

 

今日のつめたい風

 

今日はいつにも増して、かなしげな風がふいている。聞こえてくる犬の鳴き声もどこか不安そう。夏が終わるかもしれない、寂しげな季節が近づいてきているのかもしれない。そんな不安から風が冷たいのかな。

 

これからに向けて歩き出す大学生たち

それにあわせて、動き出せない自分

そんな不安が、このひんやりした風といっしょになって、寂しさを生んでいるのかな

 

それでも、焦って、ただみんなのようにこなすのは、今の自分にとって、これからの自分にとって、いいと思えない

 

みんな、どうして進めるの

みんなはどんどん前へ進んでいるかのように話す

でもそれは前へ進んでるのかな?

ただ提示された過ごし方を当たり前のように自分に当てはめ、こなす。でもそれはその人にとっての、その人の過ごし方ではない気がする

 

止まってはだめなのかな?

立ち止まって振りかえって、何をしたいか、何をすべきか、もっとじっくり見つめていたい

 

どうして、なんで、やりたいことが すでにある職業名であらわせるの

どうして、それになりたいと わかるのだろう

 

私はもっと、みんなが抱えている本心と、お話ししたいのに、 私はこれに参加するから、 私はこれを話すから、大学生の後半に近づくと、仲良くなったようでいて、そんなにも深く話し合えないのが事実だと知ったりする。まだまだ与えられた時間はあるから、もっと前を向かないと。

 

みんな、もっともっと、自分を見つめないのかな。もっともっと、考えて悩んで 参加したりしないのかな。

 

外に出てみないとわからない。もちろん、そう。やっぱり前へ歩き出さなきゃいけない。だから、きっと歩き出せるみんなのほうがすごいし、正しい。でも、なんか違う、と感じてしまうのは私だけなんだろうか。

 

ただ静かさだけ、いつも自分の近くにいる。

 

いつにもまして、連絡を取り合った日に限って どこからか、静けさがやってくる 

 

みんな明るいけれど、

どこかに静けさを持っているのかな。

 

そこを話し合えるようになれたら

もっとお互いに心から笑いあえるようになる、と私は思う。

 

 

ブログをしてみての今の気持ち

 

はてなブログの通知、新しい読者が増えました、というマークが好きです。縁がくりぬかれて、万年筆の先だけがあるアイコン。白い輪郭と透明の縁に、万年筆のペン先。そのマークがあると素敵なマークだなぁといつも思います。それと同時に通知だ!と明るくなります。透明に包まれた万年筆、そのマークに会える嬉しさと読者が増える嬉しさが合わさって、2倍になってやってきます。

 

ブログをつくってみて、時間だけが経ちました。ついこの前までアクセスが0の日なんて毎日でした。ひとつの記事を書くのに努力していないんだから、その分、成果が出ないのは当たり前なのだろう。そう思いながらも、こんなに続けていて、なんにも芽がでないのは、なんか寂しいな、と思っていました。アクセスを増やすのが最初の目的ではなかったし、読者を増やすのが目的ではなかったにしろ、何かやり方を間違えているのかな、変えるべき点があるのかなと、何度か思いました。

 

でもやっぱり、私には役に立つ記事など書けないし、読んで人生変わった!なんて記事も書けません。でも、なんか書いてみたい、そんな気持ちを抱えて、書いてみたいを書いてみたいのです。きっと、誰の役にも立たないけれど、誰かにとっては、ちょっとした休憩時間になる、なんて記事を書けたらいいなと思います。それすらもおこがましいのかな。

 

アクセス増える、読者増える、

それを気にせずに素のまんま、そのまんまを発信していけたらいいなと思います。きっとなんの役にも立たないし、休憩時間にもならないかもしれません。そんなブログですが、読者登録していただき、本当にありがとうございます。

 

誰かにとって、読んでいる間、休憩時間になれるようなブログを目指していきます。

 

 

おわり。