月の葉っぱ

夜明けはもうすぐそこに。

セロハン

「負」の膜をまとった先生がいる。

 

話していて楽しそうでもないからもちろん楽しさも伝わらない。

雑談も人をけなす話ばかり。

 

一人、教壇の上で浮いているような感じ

(もちろんそこに立つのは一人だけど)

 

「私、ウザイです」という膜がベタッとついていて、

「私、ウザイですよ」という声が聞こえてくるような気がする

 

きっと、そういうセロハンって内側からにじみでたもので、

考えていることや思っていることは外側ににじみでて、

膜のようになるのかもしれない

 

 

自分が嫌だ、と感じたら、その思いが自分を包んでいく

はじめはオブラートのように薄い膜だけど、

それがいつしか固くなって自分を包んでしまい、本当の皮膚のようになってしまう

 

そうなるまえに、

オブラートのように薄いセロハンのときに、

はずしていかないといけない。

 

きっと、あの先生はバウムクーヘンのように何層も何層も

たくさん重なっているのだろう

 

深く切り込みを入れて

分厚い膜をとっていかないと、あの先生の中にある少女はきっとでてこない

 

その膜を自分ではがすのか、それとも誰かがはがしてくれるのか、

それとも気づかずに毎日毎日新たな膜を覆ってしまうのか

 

私は、もうこの先生にはあと数回しか会わないから、

この先を知ることはない

 

いつしか後で会った時、見違えるような解放された明るさを放っているのか

それともこの時以上に分厚い膜を覆って、

出会っても「あの先生だ」と気づかないくらいになっているだろうか

 

もはや身動きがとれないくらい固くなって、動けなくなっているかもしれない

 

もしかすると、いつまでも少女のようなおばあさんが元気なのは

自分についている膜がほんの少しだからかもしれない

 

自分についたたくさんのセロハン

まるままの自分でいるために、

気づいたときにはがしておこう。

 

 

 

その先生の言葉には、

言葉の端々に嫌味や皮肉が入っていて

発する言葉すべてに、刀のようなとげがある。

 

それは、

自分を覆ったたくさんのセロハンを突き破って声を発するためなのかもしれない

 

だとしたら、なおさら膜を取り除かなればいけない

自分の膜を突き破って声を発する、

そうすれば、その声はとげをもって誰かの心を刺してしまう。

自分の膜が多いことでいつしか誰かを傷つけてしまうのかもしれない

 

自分のために、誰かのためにも

自分の膜は取り除いていかなければいけない

 

膜が自分を守ることもある

でもいつしか膜が自分を閉じることもある

 

 

 

役割というセロハンもあるのかもしれない

 

誰しもが受け取るセロハン

でも、それに固執しないように。

そのセロハンから離れる時間も必要

 

役割というセロハンにつかれたら、

しばらくハンガーにかけて放置しておこう

それを眺めながら、

もう一度がんばろうと思えたら、

またセロハンを羽織ってがんばれたらいいな。

 

 

雨が降って、

紅葉の葉にまとわる水滴が太陽の光りに照らされて光る様子

それがあの人の目に映ることはあるのだろうか。

 

 

もしも、セロハンの引っ張り口が見えたら、

そっとひっぱって1枚とってみよう。

 

嫌な人はきっと、セロハンがついているだけ

そう思ったら案外なんてことないような気がする。

 

いろんな人のセロハンをはがして、多くの人がそのままであれたらいいのにな。

そう思う前に、まずは自分についたセロハンをはがしていかなくては。