月の葉っぱ

夜明けはもうすぐそこに。

大学生の遊び

 

大学生だから遊ばなきゃ

大学生だから外へ出なきゃ

大学生だから、大学生なんだから、大学生なのに…

 

大学生だから遊ぶ

それはどんな意味?遊ぶってどんなこと?

 

遊ばないとおもしろい人になれない?

どうして遊びが大事なの?

どんな遊びが大切なの?

 

知り合って、ただ軽い話をして、

ただ遊ぶだけ

 

ただ飲んで、楽をして、みんなの話に合わせて、

ただ笑うだけ

 

そういう遊びが必要なの?

それとも遊ばなきゃという言葉にはもっと深い意味があるの?

 

こう遊ぶ、と用意された場所で

用意されたもので遊ぶ、

それで楽しむ。用意された乗り物で、遊んで、写真撮って…で、それで…?

 

そんなの楽しいのかな。

 

私にとっての遊びは、人と出会うこと

どんな場所でもいい

話題の場所とかでなく、

インスタ映えするところでもなく

 

私は、深く、

心から笑い合える友達と

心から笑い合える会話がしたい。

 

多くの人が、これ楽しいよ!こんなことして遊ぼうよ!とすすめる遊びではうまく楽しめない。

 

もっと遊べよ、と言われる。

 

遊んでないように見えるけど、

私は、話し合える人と、たくさん話し合えることができたとき、心から楽しめている

だからそれが私にとっての遊び

 

のめりこめる本に出会えたときも、

話したいと思える人に出会えたときも、

私の中では楽しさに溢れている

 

これをずっと学んでいたい

というテーマをすこしでも見つけたとき

それを少しでも自分なりに学び始めたとき

そこで新しく学んで頭の中の世界が少しずつひろがっていくとき

そんなとき、あたまの中は遊びでいっぱい

 

比べることはできないけれど、

多くの人が集まる遊び場で遊ぶより、

私は、知りたいと思えて、それを知ることができるほうがよっぽど楽しいと感じる

 

もっともっと、深く、根源から

楽しみを感じたい。

 

浅い笑いや、浅い楽しみからは、

深く、あぁ良いなぁと思える楽しさは感じられない。浅い楽しみの中にいるとき、むしろ私は他の人のように楽しむことができないから、苦しくなってしまう。せっかく楽しむ場所なのに、どうして楽しめないのだろうと。

 

きっとそこには私の知らない楽しさがある。でも今は、私にとっての楽しみ、遊びは人と出会うこと。それだけでいい。みんながわかる楽しみは、私にはわからなくても、今の私には、今楽しめる遊びがあるから。

 

たくさんの人に出会えば出会えるほど

どんどん外へ広がっていって

一日に楽しさを感じる瞬間が増えてくる

新しい人に出会う度に、新しい考えを知って

それを思い出したり、なるほどと思ったり、

よくわからないと感じたり

 

 

みんなの遊びたい、という気持ちと

私の人に出会いたい、という気持ちは同じはず

 

外から見たら、大学生なのに遊ばないなんてと思われる

 

でも私は遊んでいるよ、楽しんでる

外から見た分かりやすい遊びじゃなきゃダメですか?簡単な言葉で遊べる遊びを語った方が聞く方も納得しますか?

 

 

いつももやもやする

いつも苦しくなる

遊びって、人それぞれのものなのに

 

「大学生は遊ばなきゃ」

その言葉だけ、その遊びに含まれた経験が制限されているような気がする

 

その遊び、すべての大学生がすべきことなの?

 

たくさんある時間の使い方は自由なのに

模範解答のような使い方が、こう過ごすべきと襲ってくるような気がしてしまう

 

みんなと同じ遊び、しなきゃダメですか。

たとえ楽しいと感じなくても。