月の葉っぱ

夜明けはもうすぐそこに。

言の葉メッセージ

何かを伝えたいと思ったときに

あの人に送りたい、と思える人がいることに幸せを。

 

使い古した言の葉

パリパリになってしまった枯れ葉を送るのではなく

青々と若々しくやわらかい青葉を送りたい

 

その葉っぱに、

もっとたくさんの思いをのせたかったら

そこに水をかけて水滴をまとわせる

 

そして、太陽の光りにあてて

水滴にきらめきをつけて送る

 

光を通さない葉ではなく

その葉から太陽の光がこぼれるくらいの言の葉がいい

 

光がとおらないほど分厚い葉っぱだと、

重たくて、相手に思う余地も考える余地もあたえないから

 

 

自分のことばで伝えることに慣れていない間は

青葉を送ることはできないかもしれない

 

でも、雑草といわれるような

草でもいいんじゃないかなって

 

そこを通して見える光は

直接見える光よりも、うすい緑を羽織っていて

やわらかくてきれいだ

 

直接光を送るのは

相手の目を傷つけてしまうから、

 

自分が選んだ葉っぱに自分の想いをのせて

それから光を与える

そうしてやわらかい光にしていく。

 

そんな、光と葉っぱを送りたい人に送れたらいいな

 

そこに水滴があって輝きもあれば

それはきっと自分ができる相手へのプレゼント

 

そのプレゼントなら、

相手にもちゃんと、伝わるんだと思う

 

たとえ相手に伝わらなくても

そんな、自分なりの葉っぱを用意して人へ送ることができたなら

自分の心は十分幸せになれるはず。

 

もしも、誰かから、枯れ葉をたくさん渡されたとしても、

私はいつまでも青々とした葉っぱをわたせるようになりたい

 

すでにある言葉でも

自分の想いをのせて組み合わせれば

自分の言葉になる。

 

自分だけの葉っぱ

自分の中にそだっている葉っぱ

 

枯れさせないように

いつも見ていよう

 

いろんな人、いろんな本からもらった水、

きれいな水で育てるように大切にして。

 

木の周りに落ちた枯れ葉を

気づかぬうちに誰かに渡してしまわないように、

気づいたときに取り除いておこう

 

自分の思いを、

自分の葉っぱを、

大切に育てる。

 

いつか渡したい人にちゃんと渡せるように。

 

 

ずいぶん前の私の葉っぱです。

 

atamatokokoro.hatenablog.com

 

読んで頂きありがとうございました!

そう、だから書こう

初めの頃とは目的が違うけれど、

今は幸せになりたいから書こうと思う。

 

だから、投稿できた日は、

私自身が書いていて幸せな気分だった!

という日になったらいいな

 

少し前までは、

苦しかったことを書いてスッキリしよう、

なんておもっていたけれど、

 

自分にとっても読む人にとっても

それがどんな意味を持つか考えたら

 

幸せを書く方がきっといいな、

と思いました。

 

いろんな人に書く意味がある

 

過去の苦しみを表現して、

今苦しむ人に手を差し伸べる人

発想の転換を提案して、だれかを救う人

持ち前の表現力で日常を語る人

読むだけでくすっとさせる

エンターテイナーの人

暮らしのヒントを惜しみなく与えていく人

 

みなさんの書く意味を私なりに

受け取ってみてわかったこと、

 

それは、

心の底から何かを伝えようとしている、

ということ。

 

じゃあ、私は何を伝えたいのか考えたとき、

自分の見つけた小さな幸せを書きたい!

と心から感じた。

 

だから、

小さな幸せを書こうと思う

小さな幸せを伝えようと思う

 

どんなに小さくても大きくても

読んだらほんの少し幸せになれる幸せを

伝えていけたらいいな。

 

幸せを書いて、描ける人になりたいな。

 

苦しさに向き合ったり、

その努力だったり、

それらを踏み台にして得た幸せをつかんで

花、咲かせていきたい。

 

苦しさを書こうとしていた何日間かで

どうしても手が動かないことを知った。

 

だから、私はそれを書かないことにした。

私は幸せになりたいから、

だから、「幸せ」を書くことにした

 

*関連記事かも?* 

atamatokokoro.hatenablog.com

 

 

書きたいから書くというなら、

やっぱりそれは楽しいこと、

幸せなんじゃないかなって再確認

 

つい考えすぎて

頭の中が真っ暗になりやすいから、

頭の中に花を咲かせようと思う。

たくさんたくさん。

 

幸せだって思いながら

書くことを楽しめたらいいな。

 

そうやって続けていって

桜色のような空気に

つつまれるようになったらいいなって思う。

 

 

私が書く小さな幸せは、

私にとっての幸せなので

他の人が読んでピンとこない幸せも

多いかもしれない

 

だけど、

こんなことでも幸せになる人がいるんだと

知って、心が軽くなったなら、

また私にとっての幸せが増える。

 

今日、良いことなかったって人が、

私が晴れてる!幸せ!

と言っているのを聞いて

くすって笑ってくれたらいいな

 

小さな幸せがカップいっぱいになって

あふれるくらい、

一日にカップ一杯分の幸せを。

 

まずは小さなカップから

一杯分たまるくらいに。

いつかは大きなカップが

満タンになるくらいに。

でも、小さなカップの頃も忘れずに。

 

そうやって毎日見つけていけたらいいな。

 

幸せな人がここにいるって知れたら

ほんのすこーしでも周りが良いように見えてきませんか(*´ー`*)?

 

これからも、

小さな大学生が見つけた小さな幸せ通信。

お暇なときに見ていただけたら嬉しいです。

 

真冬の白い中に
桜の花びらひとつ

そんなふうになりたい。

 

ということで、

今日は、私がブログを書く意味を見つけた

幸せ通信でした。

 

 今年中にブログの意味の再確認すること。

それが、今週のお題「今年中にやっておきたいこと」。

 

 

 今日も良い一日を!

心の水、

心の水

 

心の中にある水を、

いつまでも澄んだ状態にしておきたい。

 

どんなときも

きれいな水を自分の中にためておいたら、

 

いつか自分が枯れてしまうくらいつらくなった時に

自分に注ぐことができる。

 

そしていつか、枯れてしまうくらい

疲れ切ってしまった人にも注げるくらいたくさん

透明でやわらかい水をたくさん、自分の中にもっていたい

 

そんな風に、

とうめいで澄んだ水をもっていたら、

 

きっと、その透明な水が目を覆ってくれるのかもしれない

そうしたら、目に煌めきがもどってきて、

澄んだ目で外の世界を見ることができる

 

 

その、透明の目のままで

誰かを見ていたら

きっと、フィルターを通してみることもない

 

何かうたがってかかることもない

 

もしも、にごった目で誰かを見てしまっていたなら

何かを思って、何かを発してしまったなら

 

目の向こうにいる人の心を傷つけてしまうかもしれない

 

そんなことにならないように、

いつまでも、とうめいな水にしておかないと。

 

とうめいな水でいたら、声もきっと透き通る

 

自分の発する声に、何のにごりもなかったら、

自分も、相手も、きっと心地いい。

 

笑い声も、純粋で透き通った声がいいな。

 

人を下にみるような、

あざけるような、

自分を卑下するような、

そんな笑い声は、笑い声であっても聞きたくない

 

もっと自由で透き通った声、

そこに何にも意味がついていない、純粋な笑い声。

 

 あふれでるとうめいな水は、

誰にも、何の思惑ももたせない

 

 そんな心でありたい。

 

 

でも

 

いつまでもとうめいの心でありたいのに

とうめいの心でいることは本当に難しい

 

とうめいを守ろうとしても、

いつしか「よく思われたい」、なんて思った瞬間に

墨汁が一滴たらされて

心の水は、うすい灰色の水になっていく

 

何かに対してむっとする

そんなことを繰り返していたら

ますますにごっていってしまう

 

じゃあ、 

1人静かにいれば、とうめいでいられるの?

 

いや、

必ずしもそうじゃない。

誰かと一緒にいることで浄化されることもあるから。

 

心の水をとうめいにできる、 

そんな人に出会えたこと に幸せを感じながら、

自分もそんな人になれたらいいな、と願う。

 

澄んだ心をもちつづけて、

守りつづけていきたい。

 

そうしていたら、

そのとうめいな心はいつしか文にもあらわれるはず。

そんな、

みえるようでみえない、とうめいな文が書けたらいいな。

 

 

これをみてくれた人にも

自分のためにも。

 

 

恋。

 

今日も、誰かが誰かを想っている。

 

お母さんが小さな男の子をぎゅっと抱き締める

お父さんが小さな女の子の手をつなぐ。

 

男の子と手をつなぐお母さん

女の子と手をつなぐお母さん

 

男の子と手をつなぐお父さん

女の子と手をつなぐお父さん

 

お父さんと手をつなぐお母さん

 

女の子が男の子へ

男の子が女の子へ

 

たくさんの恋であふれている

 

私の知らない恋が

私の知らない場所で花開いて

 

私の知らない恋が

私の知らない場所で閉じていく

 

私の知らない場所で、

私の知らない、色んな恋の形があふれている

 

 

日々移り変わる自然に恋したり、

はじめて会った人に恋したり、

あるものごとに恋したり。

 

ほんとにたくさんの恋であふれている

 

 

電車の中、街中にいる

不機嫌そうなおじさんも、

穏和なおじさんも。

 

しかめつらなおばさんも、

にこにこしているおばさんも。

 

怒りにまかせてどなり散らすおじいさんも、

孫と微笑み合うおじいさんも。

 

みんな、

誰かを想ってきて、何かを想ってきて、

いろんな恋を経てきたんだと思うと、

どの人にも、どんな人にも、

すてきな思い出があるんだろうなぁ、と思う。

 

あらゆる人の手帳に「デート」という言葉が

記入されていくこの季節

 

私の知らないたくさんの恋が、

あたたかくて幸せなたくさんの恋が、

どこかで実って、花咲くのかな。

 

恋が実って花が咲く。

まるで桜色の世界が広がっていくみたい。

 

いろんなところに桜色の雰囲気が増えて、

いろんな人の表情に桜の花が咲く。

まるで白い冬の中の春みたいだ。

 

この季節の恋を、

いろんなとこで眺めてみる。

 

そしたら、

小さな女の子と小さな男の子の、小さな恋

 

女の人同士も

男の人同士も

人との恋はひとつではなくて

本当にたくさんあるんだと知る

 

それが珍しいからといって

仲間はずれにするのではなく

 

たくさんの恋の形があるほうが

もっと世界は恋であふれて

もっともっとあたたかい世界になるんだろうな。

 

そう思うと、

誰もが愛しい存在になってくる

 

何に恋するかとか

誰に恋するかとか

そんなこと、関係なくなって

 

みんながみんな恋する存在なんだと知る

 

凶暴的なあの人も

しかめつらをしているあの人も

 

きっと何かに恋をしていて

誰かに思いを寄せている

 

誰もが愛すべき存在で

誰もが愛されるべき存在

 

 

愛されて、愛して、

いろんな恋が生まれていく。

 

 そして、

 

いろんな恋が、

たくさんの作品を生み出して

いろんな恋が、

たくさんの人の大切な思い出になっていく。

 

今日も、誰かが誰かを想っている。

 

みんな、愛されるべき存在で、

みんな、恋する存在なんだよって

 

12月になったこの冬が、

光の温かさと共に教えてくれた。

 

街の中にたくさんの光が灯っていく中で、 

いろんなものに恋できたらいいな、と感じる。

 

あらゆるもの、

あらゆる人に向けた恋が実り

花、開きますように。

 

 

 恋についてちょっと考えてみる「プレゼント」

 一足先のメリークリスマス♪

 

 

意味を知ってから、

いつか使ってみたい!とその時を待っていたけれど、なかなか来ないようなので…

 

これを読んでくれたみなさん!

月が、綺麗ですね。

 

 

 外にある月も、ね。

みんな芸術

 夜になっていく暗い世界に、

モミの木を通して見える街灯の光

 

車から電車から、お店から、

あらゆる方向から出される光

 

公園の中にポツンとひとつある光が

まるい光のボールになって木にふれている

 

空の景色も空の声も空の音も

海の景色も海の声も海の音も

山の景色も山の声も山の音も

 

どれもが日々、その瞬間生み出される作品

 

 

この世界には芸術があふれている。

 

 

目の前につかめるものすべて作品で、

目に見えなくてつかめないものもすべて作品。

 

頭の中にある思いも

頭の中に浮かんだ思い出もみんな作品。

 

目に映る景色も

今はない小さい頃の思い出の景色もみんな作品。

 

今 ここにあることばも

これからうまれる新しい言葉もどれもみんな、作品

 

 

そう思うと、どれもこれもみんな芸術なんだと気づく。

 

かつて、

ずっと美術館の中に入れたらいいなと思うことがあった。

でも、今、

私の周りには多くの作品があることに気づいている

そして、私はそれに包まれている。

 

だから

 

私はとても大きな

とても壮大な美術館にいたんだと知った

 

入口と出口があって、

監視員がいる普通の美術館ではない

 

 

もっともっと広がりがあって

広くて大きくて偉大で

風が吹いて、雨が降って、太陽の光がそそがれる

 

そして、

誰にも監視されないで芸術をみることができる

そんな壮大な美術館の中にいる。

 

 

幸せも笑いも悲しみも、

苦しさもせつなさも虚無感も、

名言もあいさつも悪口でさえも、

 

どれもこれもが作品、

そして、

どれもこれもが芸術。

 

今 目に映るもの

頭の中にある記憶

心の中の思い

 

どれもが、みんながつくりあげてきたもの

 

手紙も本もおふとんも

服もノートも髪型も

誰かが心をこめてつくりあげてきたもの。

 

すべてが作品なんだ

 

工場もラインも製品も

サービスも声かけもレジ打ちも、どれもが作品

手紙もショートメッセージもメールも。

 

自然が見せてくれる芸術と

画家が見せてくれる芸術と

全ての人が見せてくれる芸術

 

どれもが芸術なんだ

 

 

おはよう、いってきますという朝の作品に

おやすみ、良い夢みてね、という夜の作品。

 

 

日々生まれる会話という作品に、

教える人教わる人がある、授業という作品

 

日々を刻み、時を教えてくれるカレンダーも

私を記録してくれる手帳も

 

みんながみんな芸術で、

みんながみんな何かを生み出している

 

描かれたものだけが芸術じゃない

 

この世界全てが芸術なんだ

 

そして、もちろん、

私たち自身も作品なんだってことを忘れずに。

 

 

もやもやとしていて目の前の芸術を見逃さないように

いつもわくわくしながら外の世界に接しよう

自分の内側に広がる大宇宙も、ね。

 

 

  ・・・・・

 着想はこちらから頂きました!

 上の小枝さん、ありがとうございました!

 

uenokoeda.hatenablog.com

 この世界観が芸術みたい、とコメントした際、 

「芸術みたい」なのは、世界そのものであって、私自身はそれを切り出しただけで…

とお返事をいただき、「そうか、世界は芸術なんだ!」と目が覚めました。世界が芸術、そう気づかせてくれてありがとうございました。

 

 ≪付録≫

以前、上の小枝さんに紹介して頂いた記事です。

この時はじめて紹介されて嬉しかったので載せておきます。

(もう2か月半くらい前ですが…)

uenokoeda.hatenablog.com

 

 さあ、私も「今日」という作品を仕上げていこう!

それでは!良い一日を!

 

 

昨日も今日も作品、明日もね。

 

セロハン

「負」の膜をまとった先生がいる。

 

話していて楽しそうでもないからもちろん楽しさも伝わらない。

雑談も人をけなす話ばかり。

 

一人、教壇の上で浮いているような感じ

(もちろんそこに立つのは一人だけど)

 

「私、ウザイです」という膜がベタッとついていて、

「私、ウザイですよ」という声が聞こえてくるような気がする

 

きっと、そういうセロハンって内側からにじみでたもので、

考えていることや思っていることは外側ににじみでて、

膜のようになるのかもしれない

 

 

自分が嫌だ、と感じたら、その思いが自分を包んでいく

はじめはオブラートのように薄い膜だけど、

それがいつしか固くなって自分を包んでしまい、本当の皮膚のようになってしまう

 

そうなるまえに、

オブラートのように薄いセロハンのときに、

はずしていかないといけない。

 

きっと、あの先生はバウムクーヘンのように何層も何層も

たくさん重なっているのだろう

 

深く切り込みを入れて

分厚い膜をとっていかないと、あの先生の中にある少女はきっとでてこない

 

その膜を自分ではがすのか、それとも誰かがはがしてくれるのか、

それとも気づかずに毎日毎日新たな膜を覆ってしまうのか

 

私は、もうこの先生にはあと数回しか会わないから、

この先を知ることはない

 

いつしか後で会った時、見違えるような解放された明るさを放っているのか

それともこの時以上に分厚い膜を覆って、

出会っても「あの先生だ」と気づかないくらいになっているだろうか

 

もはや身動きがとれないくらい固くなって、動けなくなっているかもしれない

 

もしかすると、いつまでも少女のようなおばあさんが元気なのは

自分についている膜がほんの少しだからかもしれない

 

自分についたたくさんのセロハン

まるままの自分でいるために、

気づいたときにはがしておこう。

 

 

 

その先生の言葉には、

言葉の端々に嫌味や皮肉が入っていて

発する言葉すべてに、刀のようなとげがある。

 

それは、

自分を覆ったたくさんのセロハンを突き破って声を発するためなのかもしれない

 

だとしたら、なおさら膜を取り除かなればいけない

自分の膜を突き破って声を発する、

そうすれば、その声はとげをもって誰かの心を刺してしまう。

自分の膜が多いことでいつしか誰かを傷つけてしまうのかもしれない

 

自分のために、誰かのためにも

自分の膜は取り除いていかなければいけない

 

膜が自分を守ることもある

でもいつしか膜が自分を閉じることもある

 

 

 

役割というセロハンもあるのかもしれない

 

誰しもが受け取るセロハン

でも、それに固執しないように。

そのセロハンから離れる時間も必要

 

役割というセロハンにつかれたら、

しばらくハンガーにかけて放置しておこう

それを眺めながら、

もう一度がんばろうと思えたら、

またセロハンを羽織ってがんばれたらいいな。

 

 

雨が降って、

紅葉の葉にまとわる水滴が太陽の光りに照らされて光る様子

それがあの人の目に映ることはあるのだろうか。

 

 

もしも、セロハンの引っ張り口が見えたら、

そっとひっぱって1枚とってみよう。

 

嫌な人はきっと、セロハンがついているだけ

そう思ったら案外なんてことないような気がする。

 

いろんな人のセロハンをはがして、多くの人がそのままであれたらいいのにな。

そう思う前に、まずは自分についたセロハンをはがしていかなくては。

 

単純になろうっと。

生きる目的をもつ幸せ、

人を救うことができる幸せ、

 

そんなにも大きな幸せを考え続けて苦しくなるのなら、

甘いホットケーキだけの幸せに包まれてみよう。

ふかふかとホットケーキをほおばって。

 

atamatokokoro.hatenablog.com

 

目指す姿を決めるとか、

どんな趣味を持つべきかとか、

それを仕事にするにはとか、

 

いろんなやり方や方法を考え続けて苦しくなるのなら、

ただボーッとして、頭の中に浮かぶたくさんの風船を見つめていよう。

それが私の好きなこと。

 

 

好きなことは本を読むこと?

人と話すこと?

それとも食べること寝ること?

 

なんのなんの、

私が一番好きなのはボーッとすること。

頭の中にたくさん浮かんだ風船から、

気に入った風船をつかんで、それと一緒に散歩すること。

 

 

そう、

今日、良いことあったんだよ!

投稿数と読者数がそろったんだよ!

見ていてとても心地いいでしょ?

ほら!今日はよかった日、とてもよかった日!

単純になろうよって少し前の自分が言ってる。

f:id:atamatokokoro:20171129230012j:image

 

確かに、今日はよかった日、

良いことあったんだ、

 

複雑になって、

そばにあるしあわせに気づけないなら

大きなしあわせも手に入るわけない。

 

考えすぎて苦しくなったんだ、

しばらく単純になろうっと!

 

一番シンプルな幸せは、

すぐそこにある幸せに気づけること。

 

 

ただそれだけ、

ただそれだけなのに、

どうしてこうも複雑になってしまうのだろう。